「君が代は九州王朝の女王讃歌?」
児島襄(こじまのぼる)の著作に「大山巌」がある。それを読んでいくと、大山が維新後に自分が開発した臼砲「弥助砲(戊辰戦争で使用したオランダ製の12ドイム臼砲を改良したもので、この当時、大山は弥助という名前であり、弥助砲は通称である。ほかに四斤山砲を改良したものもある)」を引いて江戸(東京)に入った。
その頃、西洋の軍隊には軍楽隊があることを知った大山弥助は、薩摩軍の鼓隊員30人余りを横浜の英公使館軍楽隊長のジョン・ウィリアムズ・フェントンに学ばせた。
ロンドンからトランペット、フルート、クラリネット、フレンチホルン、ドラム等が届き、本格的な練習をしようとすると、フェントンが「日本国家から演奏練習しよう」と言った。この頃の日本には国家がなかった。
するとフェントンは「自分が作曲してやるから歌詞を作って来なさい」と言った。困った鼓隊員が大山を訪ねて来て「どうしましょうか?」と聞いた。すると大山は「君が代があるじゃないか」と答えた。
「君が代」は、薩摩琵琶の「蓬莱山」の一節「目出度やな、君は恵は久方の(中略)君が代は、千代に八千代に礫石の、巌となりて苔のむすまで、命長らえて、雨塊を破らず…」(新泉社 「君が代は九州王朝の讃歌」 古田武彦」より)から引用したもので、薩摩藩主の島津日神斎が作詞したものだ。しかし、元々は天皇家よりも古い九州王朝時代の歌であり、それが薩摩琵琶となって古くから歌い継がれてきたものだ。当たり前のように言われる古今和歌集の一節「わが君は千代に八千代に…」ではない。
君が代はのちに明治13年に宮内省式部寮雅楽課の林広守が作曲し直し、海軍省傭教師のフランツ・エッケルトが編曲して正式に国家となる。
「その選定の主唱者が大山弥助(巌)であり、求めた原歌が“薩摩歌”であったことは、まちがいない」(児島襄 大山巌Ⅰ戊辰戦争)より。
「君が代」は、薩摩琵琶よりも古い九州王朝の歌であり、君が代の“君”とは九州王朝の女王のことではないか?と、古田武彦さんは書いている。
君が代は、天皇家中心の一元史観で国民を洗脳してきた明治薩長政権が、ねつ造したものなのである。
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