風を供物に & 江戸川サイクリング
「風を供物に」
消雲堂 渡部克弘
壱
「俺か?」それまで黙って無表情だった義父が、スマートフォンの液晶モニターに映った自分の写真を指差して”自分なのか?”という意思表示をした。
「そうだよ」僕は、子どもを愛でるような思いで義父の顔を覗き込んだ。久しぶりに反応した義父を見て凄く嬉しかった。おまけにこの時の義父はあどけない子どものような目をしていた。自分の子どものように愛おしい気がするのが不思議だった。
「年とったら子どもに戻るって言うじゃない。お父さんは子どもに戻ってるんだよ」妻の請子はよく言う。そのたびに僕は「子どもに戻るのとは違うんだよなぁ…」と、曖昧な返事をする。妻が子どもに戻っていると言いたがるのは、まだ義父がまともだった若いころに”救い”を求めているような気がするからだ。請子にはそういうきらいがある。認知症は風邪と同じで、いつかは治癒する病気であると思い込みたがっているのだった。
この日、僕と請子はK市にある介護付き老人住宅に入居している義父の面会に来ていた。
義父は今年の冬に倒れてから認知症状が酷くなり、認知力の低下だけでなく排尿も自力ではできなくなっていた。尿管にバルーンカテーテルと呼ばれる尿道を拡げる管を挿入して尿バックに強制排尿させる必要があるのだが、管の挿入は「医療行為」になるので、医療従事者以外の手ではできない。請子は「私が自宅で介護したい」と職業訓練で介護職員初任者研修の資格までとったが、この医療行為を伴う義父の在宅介護は不可能だった。
罹りつけの東京の病院に3ヶ月入院した後、埼玉県にある認知症専門病院を紹介されて転院させたが、ここも3ヶ月後には退院させられてしまう。そのため僕と請子は退院後の受け入れ先を必死で探した。
そんな時、僕たちが住むK市の市役所で介護付き老人住宅施設の存在を知った。僕たちは何度か施設に通って面談し、ようやく義父をその施設に入所させることができた。また、この月の18日は義父の誕生日であり、施設では入所早々に誕生日を祝ってくれている。請子は自分の近くで父親の世話ができることを心から喜んでいた。
ただし、認知症の症状は日増しに進み、時折、名前を呼ぶと返事をすることがあるものの会話は成り立たなくなっていた。この日は、義父が僕に対して意思表示したことから僕は義父と会話した気になっていた。その時、請子は施設の事務員と話をしており部屋にはいなかった。
施設を出て自宅まで歩いている時に請子にその話をすると「いいなぁ!お父さんは実の娘の私とは口もきいてくれないんだもん」と言って頬を膨らませた。
それから3日後に義父は死んだ。
弐
その日、早朝に電話が鳴った。まだ覚醒しきっていない眼をゴシゴシとこすりながらベッドから起き上がって、そのまま電話の音を聞いていた。僕の横を見ると寝ているはずの請子がいない。仕方なく電話に出ようとすると、先に請子が受話器を取っていた。外にゴミ出しに行って帰って来ると、電話が鳴っていたので受話器を取ったらしい。僕は請子の声を聞きながらヨロヨロとベッドから降りて電話がある居間のソファに座った。
「おはようございます。あ、お世話になっています。何かありましたか? あ、はい、は、はいはい…ええっ!」と叫ぶと、請子はその場に泣き崩れてしまった。慌てて「どうした?」と駆け寄っても返事をしないので、請子の手から受話器を取って電話に出てみると、義父が入居している施設の所長の声が聞こえた。
「あ、ご主人ですか? あのう…申し上げにくいのですが、今朝、担当者がお父様の部屋に入ったら、お父様がベッドの上に倒れていて、既に心肺停止状態だったんです…それで、ご契約の際に万が一の場合には延命処置をとらなくてもよいということだったのですが、この場合、どうしたらよろしいかと思いまして」と言う。(多分義父は死んでいるのだろう。はっきりと死んでいると言ってくれればいいのに)と僕は心の中で呟いた。何となく義父の死が間近に迫っていることを予想はしていたけれど、それがあまりにも早すぎて驚いた。この施設に入居したばかりで、しかも、義父はこの間、誕生日を迎えたばかりだった。僕は人の運命の儚さと残酷さを改めて感じた。
「あ、そうですか。うーん…でも、一応、救急車を呼んでいただけますか?」
「あ、あ、そうですかぁ…やっぱりそうですよね。はい、わかりました、それではすぐに施設にいらしてください」電話を切ると僕たちはタクシーを呼んで施設に急いだ。
なぜかこの日は施設までの道のりを遠く感じた。タクシーの車窓から見える街の風景も、いつもとは違って見えた。隣の請子を見ると最悪の不幸を予測して泣きじゃくっている。僕は肩を抱いて「大丈夫だよ」と声をかける以外なかった。
僕たちを乗せたタクシーが施設に着くと、救急車が義父を乗せずに空の車で戻る準備をしているところだった。請子が救急隊の男性に「父は助かりますか?」と聞くと、男性は無言のまま首を横に振った。「ああ…」と倒れそうになる請子を支えながら、義父の部屋まで歩いていくと、部屋の前に立っていた救急隊の男性が中に招き入れてくれた。遺体の傍に駆け寄ろうとする請子を救急隊の方が両手で、そっと制して「申し訳ありませんが、検死のために現場保存する必要がありますので部屋のものやお父さんが身につけているものには触れないようにお願いします」と言った。
義父のベッドの下には電極パッドがむき出しになったAED装置が転がっていた。義父は、ベッドの上にパジャマ姿で仰向けで硬直していた。右足が少し突っ張るように伸びて、シーツを下方に押し出していた。頭は枕からずり落ちて、両目を見開き、口を大きく開いて、突然やってきた死の瞬間を「信じられない」と叫ぶように天井の一点を凝視していた。
「お父さんっ!」請子は父の傍らに崩れ落ちて号泣した。僕は彼女が倒れないように支えながら「大丈夫、お父さんは自由になれたんだから、お義母さんに会いに行ったんだから」と言って彼女の気を静めようとした。義母の風子は12年前に死んでいる。義母は風の子、風のように精一杯飛んで死んだ。
請子の肩を抱き支えながら、義父の表情を伺ってみた。先ほど見た苦悶の表情が少し和らいだように見える。「お父さん、お父さんっ!」泣き叫ぶ請子は義父のベッドの枕元に両肘をついて義父の顔を間近に見ながら「お父さん、本当にごめんなさい!」と言うと、そのままバランスを失ってその場にへたり込んでしまった。
僕は義父の苦悶の表情を凝視しながら「苦しかったの? 可哀想に…」と言ってみた。元気な頃の義父ならば「苦しくなんかねぇよ」とひねくれた返事が返ってくるのだが、今の義父の表情はあまりにも苦しそうで、とてもそんな元気な返事が返ってきそうに思われない。その姿があまりにも哀れに見えた。
「迷惑ばかりかけてごめんね」と心の中で呟きながら義父の禿げ上がった頭を撫でた。皮膚は冷蔵庫の中に長く放置されたリンゴのように冷たい。今度は頬に触れてみた。硬いゴムの表面に、薄いこんにゃくを貼り付けたような触感だ。それでも手の平で温めれば体温が戻ってきそうな感じだった。
そこに警察だと思われる人間が4~5人入って来て「ご家族の方、大変申し訳ないのですが、少しの間、部屋の外で待機していてください」と事務的に言った。
義父から離れようとしない請子を立たせて、支えながら施設内にある談話室のソファに腰を下ろした。請子はハンカチで顔全体をおさえながら「うううう…」と嗚咽している。僕は少しでも慰めようとして普段は口にしないような自分でも気恥ずかしくなるような言葉がいくつも口から出てきて思わず赤面してしまった。
現場検証が終わると、亡骸は検死のためにK市の警察署まで運ばれて行った。病院以外で死ぬと事件性がないかを調べるのだ。数時間後に請子が警察署まで亡骸を引き取りに行って戻ってくると、義父の目も口も閉じられ、苦悶の表情は消え、眠っているような穏やかな表情に変わっていた。
参
僕たちには義父の葬式を行う費用がなかったため、結局、火葬だけ行うことになった。
火葬の日は関東地方を台風が通過中で、僕と請子はビニールの合羽に身を包んで激しい風雨の中を施設まで歩いた。途中でコンビニの大きな看板が吹き飛ばされて歩道に倒れていた。
施設では好意から義父の「お別れ会」をしてくれた。施設の職員と入居者が50人ほど集まって義父の死を悼んでくれた。
ほどかれて1本ずつに分けられた供花は次々に義父の棺に入れられて、義父はたくさんの花の中に埋もれた。柄にもない花に包まれた義父の表情はなんだか滑稽に思えた。
遺影を抱いて霊柩車に乗り込む請子に僕は「頑張れよ」と声をかけた。「何を頑張るの?」と言って笑った。久しぶりに彼女の笑顔を見た。笑顔の請子を乗せた霊柩車は静かに走り去った。僕たちもタクシーに分乗して火葬場に向かった。台風は既に通過して青空に太陽が浮かんでいた。
僕たちは火葬場の骨上げのための狭い部屋で焼かれた義父の骨が運ばれてくるのを待-っていた。ガラガラガラと外から大きな音が聞こえると、自動扉が開いて義父の骨が乗った大きな金属製の台車を請子が運んで来た。その骨を運ぶのは遺族の役割だった。
僕は台車の上の義父の骨を見て驚いた、両足の骨は大腿と脛がそのままの形で残っていたからだ。それは実物大の人骨の標本のようだった。
骨上げを終えると火葬場の担当者が「脚の骨がしっかりしていたからでしょうね。私たちもあまり見たことがないです」と言いながら、大きな骨をガツンガツンと砕きながら無造作に骨壷に押し込めてしまった。請子は複雑な表情でそれを見ていた。
すべてを終えて僕たちが火葬場を出ると、強い風が吹いて台風に振り落とされた落ち葉を舞い上がらせた。請子が「お父さん、風子お母さんが迎えに来たよ」と言って、また笑った。
「江戸川サイクリング」
壱
稔は、痛む膝をかばいながら、ゆっくりと歩いた。稔が住むマンションの部屋は11階にあり、室外の共有の廊下からはビルの間に富士山が見えた。「ふう…」稔は、その日本一の山をいまいましく一瞥しながらため息をついた。稔は75歳になったばかりだ。
稔の膝が痛むのは軟骨が磨り減って神経に触るからだ。最近は膝が痛いだけではない。自分では気づいていないが最近では軽い認知症のような症状があった。随分前のことは良く覚えているのだが、最近のことはすぐに忘れてしまう。さっき食べたものが何だったのかさえ忘れてしまうほどだ。それを一緒に住んでいる娘の佐知子に指摘され始めていた。佐知子は元来がさつで自分本位な性格で、自分の父親が認知症の初期症状であることなど気づかないし、そうだと知っても父親の世話をつきっきりで看なくてはならない面倒な認知症であることなど、彼女は受け入れなかっただろう。佐知子は今年で50歳を越えるが結婚したこともなかった。孤独感が佐知子の心を既に壊していた。
少し足を引きずりながらエレベーターに乗ってマンションの階下にある駐輪場に向かった、エレベーターを降りると同じマンションの住民が無愛想な表情で数人乗り込んで行った。「ちっ」稔は満足に挨拶もできないこのマンションの住民が嫌いだった。
「満足に挨拶もできないくせに気取りやがって…」と呟きながら駐輪場の重い金属製のドアを押し開けた。駐輪場は暗く、目も見えなくなってきた最近は自分の自転車を見分けることも難しくなっていた。やはり少し迷ってからようやく自分の自転車を見つけるとポケットから小さな鍵を取り出して鍵を外した。
稔は娘と二人暮らしだ。娘は夜遅く帰ってくるので父親の世話ができない。休日には父に構わず外出した。稔はずうっと一人暮らしのような生活だった。娘が仕事に行っている昼間は暇をもてあましていたが、元来人付き合いの下手な彼は誰に会うでもなく、半日を室内でテレビを見て過ごし、夕方にはマンションの前にある大型スーパーに行って、夕飯にするための値引きされて安くなった弁当を買ってくる。それが日課になっていた。稔は数年前に死んだ妻の代わりはできなかった。整理好きな彼にとって掃除洗濯はお手のものだが、料理だけは作れなかった。
娘の分の弁当を用意していても、彼女が日をまたいでから帰宅するときには、「外で食べてきたから」という一言だけで、娘のための弁当は、稔のその日の昼食になった。最近では「そんな余りものの弁当なんて食べないよ」と娘にはっきりと言われるようになってしまった。稔は孤独だった。
稔は自転車を駐輪場から押し出すと少しよろめきながら、マンション横を通る広い産業道路を渡る横断歩道で信号が青になるのを待った。産業道路を山積の荷を運ぶ大型トラックが休む間もないほどに行き交っていた。「車か…」稔は10年前に妻に死なれてから体のあちこちが痛み出して車の運転ができなくなってしまった。稔は定年を迎え、当時K市の市会議員を勤めていた妻の送り迎えに車を運転していたし、運転にはそれなりの自信があった。運転できなくなったことが、さらに稔の孤独感を増幅させた。
結婚して千葉に暮らす長女の祥子の亭主が、その車を売り払って新車を購入する頭金として、月々の支払いも稔が貸してやった。家族の中に車を持っている者がいれば、残った家族全員で仲良くドライブするのも夢ではなかった。しかし、その小さな夢さえも叶うことはなかった。義理の息子は稔の期待に応えてはくれなかった。車の購入費用は完納してくれたものの、祥子夫婦は自分たちの楽しみだけに車を使い、稔を省みることがなかったのだった。叶わぬ夢を抱いた自分が惨めだった。自分の中には、車に対する愛着が眠っているのだった。「金の問題ではなく車を運転できないのが辛いのだ」と稔は落胆した。
産業道路の信号が青に変わった。稔はまたよろめきながら自転車を押して横断歩道を渡った。振り返ると住んでいるマンションが巨大な岸壁のように聳えていた。
ここに移り住んで来た頃はまだ幸福だった。妻も生きていたし、車もあった。娘たちも身近に感じた。マンションの近くには妻の腹違いの母や半分同じ血が通った兄妹も暮らしていて、互いに仲良く行き来していた。マンションの購入に当たって兄弟たちは喜んで大金まで貸してくれた。
ところが妻の病気が不治の病で余命いくばくもないと判明すると、その幸福は脆くも崩れた。腹違いの兄弟たちは手の平を返して「自分たちが貸した金を返してほしい」と病床まで詰め寄って妻を、自分たちの姉を責めた。妻はそれからしばらくして死んだ。後に残ったものに幸福という2文字は見当たらなかった。
稔はひとりぼっちだった。娘さえも自分の気持ちを理解してくれなかった。「なんでお前は死んでしまったんだ…」稔は妻の写真を胸に抱えて泣く日が多くなった。
自転車に腰掛けるとマンションを背にして北に向かってハンドルを向けてペダルを踏み出した。稔は自転車で妻の墓まで行くつもりだった。
弐
祥子が自宅で昼食の後片付けをしていると、電話の音が鳴った。
祥子は洗い終わったばかりの食器を食器乾燥機に入れて、タオルで手を拭きながら慌てて電話の子機を手にとって電話に出た。受話器の向こう側から父の稔の声が聞こえた。父の声と一緒に強い風の音が聞こえた。(外にいるのかな。父はどこにいるんだろう、もしかして徘徊だろうか…)祥子は不安になった。
「お父さん、どうしたの」
「今さ、どこにいると思う」
祥子と話すとき、父はおどけてばかりいる。もともと稔は明るい性格なのだ。それでも人の好き嫌いが激しいばかりに偏屈だと思われがちなのだった。
「何よ急に、どこにいるの」(認知症による徘徊だろうか)祥子の不安は増した。
「へへへ、江戸川の土手の上を走っているんだよ。川沿いに走れば墓まで行けるんだよ」
「何!ダメだよ、危ないじゃないの、戻りなよ」
「大丈夫だよ、家から一時間ほど走れば、あんたのお母さんに会えるのに気がついたんさ」
「わかったから、走りながら電話しちゃ危ないよ」
「大丈夫、今は土手に座って休んでいるんだよ」
「で、今はどこにいるのよ」
「うーん…地図見てもわかんねぇなぁ、タンエって読むのかなぁ。」
「タンエ…」(どこだろう…あ、多分、瑞江(みずえ)のことだ
「とにかくさ、膝が悪いのに自転車で、お母さんのお墓まで行くのは危険だよ、お願いだから家に戻ってよ」
「やだよ、墓まで行くって決めたんだよ。土手の上は気持ちいいぞ、お前も来ないか」
「そこがどこだかわからないのに行けるわけないじゃん」
「墓まで来ればいいんだよ、墓に行くんだから、俺は墓で待ってるから」
「お墓まで行ったとしても、帰りは、またお父さんひとりで自転車に乗って帰るんでしょ。危ないじゃない。それに今日はこれから歯医者に行かなくちゃならないんだよ、お願いだから家に戻って…」
「なぁんだ、そうなのか、しょうがねぇな、じゃひとりで行ってくるよ」
「お父さん、やめてって」
「うるせぇ」電話は切れた。
「ったく、短気なんだから、わけわかんない」
祥子は食器乾燥機の電源を入れてから深くため息をついた。
「やっぱり心配だ」
食器乾燥機の唸るような音が聞こえ出すと、祥子はゆっくりと電話機の子機を手に取って稔の携帯電話に電話をかけた。(出ない…怒ってるのか)
祥子は、居間の食器棚の上の稔と稔が江戸川の土手の上を自転車を懸命にこいで全力疾走している姿を想像して涙を流した。(お父さん、いっつもお母さんと一緒だったもんね)稔の孤独が少しだけ見えた気がした。仏壇代わりにしているレンジ台の上に置いている母の写真に手を合わせて父の無事を祈った。
祥子は結婚して千葉に住んでいた。もともと親孝行な娘だったが、結婚した相手が最悪な男だった。この男のせいで父親の稔には迷惑ばかりかけていた。そんな男と離婚することもできない自分にも嫌気がさした。父には申し訳ないと思っていた。
参
稔は左に見える江戸川をチラチラ見ながらペダルを漕いだ。漕ぐたびにガシャコンガシャコン…と音をたてる。
川からの心地よい風を老いて皺だらけになった顔に受けながら走るのは実に気持ちよかった。しばらく走ると稔の視界に自分と同じ年くらいの2人の老人が釣りをしているのが見えた。鯉のぶっこみ釣りだが、稔には何を釣っているのかわからなかった。
「あんなとこで釣れるのか…何が釣れるんだべ、面白そうだなぁ」
稔は子供のころに故郷の炭鉱町を流れる遠賀川で鮒釣りをしたことがあるが、大人になってからは釣りをした記憶がない。祥子の亭主が釣りを趣味にしていて、祥子と夫婦でよく釣りに出かけているのを知っていた。(あんなもの何が面白いんだ)稔はいつもそう思っていた。でも、今は暇だからあの男性たちに混じって釣りするのも暇つぶしにはいいかなと思った。
土手の上の自転車道路を走るのは気持ちがいい。釣りを見ながら走っていたら、正面から装甲車のような自転車の前後に子供を乗せた走ってきた若妻グループとすれ違いざまにぶつかりそうになった。驚いて思わず「危ねぇじゃねぇか、この…」と叫びそうになったら若妻たちもそれに気づいたのか、そのうちのひとりが稔を睨みつけて「ちっ」と舌打ちしたら、それに合わせてグループの女性たちが 「ひゃはっはは」と奇妙な笑い声を発しながら走り去った。
「ちっくしょう…最近の母親は、みなヤクザみてぇだ」
稔はブツブツ文句を言いながら自転車を漕いだ。向かい風が吹き始めてペダルを漕ぐ両足に力が入る。あっという間に額に汗が吹き出てきた。
「楓子は優しかったなぁ」稔の脳裏に楓子の優しい笑顔が浮かんだ。また涙が出た。楓子が死んでから稔は涙もろくなっていた。(男が泣くなんて…情けねぇ…)そう思いながらハンドルから左手を離してジャンパーの袖で涙を拭いた。涙もろくなったが若いときのように涙は止め処なく流れることはない。
ペダルを漕ぐたびに自転車のチェーンとギアがガシャコンガシャコン…と音を出す。
向かい風はさらに強くなってくる。両足に力が入る。額から流れ落ちた汗が目に入って痛い。(涙の次は汗かよ…)今度はハンドルから右手を離してまぶたを拭う。拭ったことで一瞬目の前がぼやけて見えた。そのとき稔は右手の対岸に一筋の煙を見つけた。人が燃える際の煙だった。(楓子を火葬したところだな…)10年前に妻の楓子を火葬した瑞江葬儀場の煙だった。
楓子は肺がんの末期宣告を受けてからひと月ほどで死んだ。楓子は「西洋医学の治療は受けない」と言ってきかなかった。西洋医学を根拠なく否定して、呪術のような治療行為やよくわからない漢方薬を併用する民間の代替治療を信じた。稔もそれを受け入れてやることしかできなかった。そのために楓子の病状はあっという間に進行してがん細胞は両肺を埋め尽くしてしまっていた。救急車で運ばれたときにはもう手遅れだった。しかも余命はひと月以内だろうと医師は言った。
楓子が死んだ責任の一端は自分にもある、怪しい代替療法など強く反対すればよかったのだ。悔やんでも悔やみきれない…妻を亡くしてしまった悔しさは10年経った今でも拭い去ることができなかった。
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